糸繋ぎ、四季踊る 夏の章

2019年4月30日火曜日

糸繋ぎ、四季踊る

t f B! P L

春の章 夏の章 秋の章 冬の章


   1
   
「し、師匠……」
 弱り切った声をあげて、少年は老人を呼んだ。
 春から少し時が進み、老人の作業部屋にも熱が篭る。換気用の窓はあるものの、あまり大きく開け放つわけにもいかず夏の猛威に汗がにじんだ。
 しかし、少年が弱っているのは暑さのせいではない。
「やっぱり、わからないです……」
 少年の手元には、たくさんの大小さまざまな木片と、それを削り取るための工具が散らばっている。木片は表面がざらざらとしていたり、やたらと形が小さかったり、とにかく無理矢理そげ落としていたりとかなり煩雑な形をしている。少年の作業台を見ても、多くの人は彼が何をしているか分からないことだろう。たとえ彼の弟子入り先が、人形職人だと分かっていても、だ。
「どうやったら、そうやって人形の形が作れるんでしょうか……」
 無言で作業をし続ける老人に向かって、再度少年は声をかける。木材と工具を渡されたものの、それだけですぐに形作れるほど、人形作りは容易いものではなかった。 
「あ、あの……」
 作業部屋はもともと老人が一人で使っていただけあって、あまり広いものではない。少年と二人、狭い思いをするほどではないが、かといってお互いの声が聞き取れないほどの距離はなかった。
「……」
 老人は、聞こえていないのではなく、わざと少年の言葉に答えていない。それが分かりきっていても、少年は何日もの間どうしようもならない木屑を作り続けている。
 しばらくして、少年は何かを決意したように、ぴしっと顔をあげて老人のもとへと向かった。老人の背後からそっと、彼の手元を覗き見る。老人は、やはり何も言わなかった。
 老人の作業台上には、すでに木でできた胴と手足が転がっている。今老人が掘っているのは、顔の部分。木材をくるくると回されながら、徐々に面が削り落とされ、自然と丸みをおびてくる。ただの木材が少しずつ人の顔へと変わっていく。完成までまだ遠いそれを一目見ただけでも、子供の人形というのがすぐに分かった。
 全体が終わると、今度は目と、鼻と、口と、順番に顔のパーツが彫り出される。慣れた手つきで工具を入れ替えながら、大胆に、繊細に、それらは形作られていく。
 まるで、魔法だと少年は思った。人の手で行われるものと思うには、それはあまりにも優雅だった。
 どれくらい老人の作業を見ていたか、少年には分からない。ただ、すっと老人が手を止めて人形の顔を確認しだしたことで、作業は終わったのだと理解した。
「……これで、わかったか」
「……、え!?」
 今まで無言だった老人が、唐突にそう言った。言葉の意味を咄嗟に理解できず、少年は大仰に狼狽える。
「どうやったら作れるかと聞いたろう」
「む、無理です! そもそもこんなに簡単に形が作れないし、どこをどう見ればいいのかも……」
「これができなければ話にならん」
「……」
 はっきりと言われ、少年はうつむいた。決して器用とは言えず、経験もなない。職人そのものな老人の手と比べると、彼の手は悲しいぐらいに貧相だ。同じようなことができるとは、少年にはとても思えなかった。
「無理だというならやめろ」
 それだけ言うと、老人は作業を再開する。
 作業をする老人の背中を少年はじっと見つめるが、もう仕事を覗くつもりはなかった。
「わしはそれでもかまわん」
 重ねられた言葉に、少年は顔を上げる。
「やめません」
 しっかりと、はっきりと、――真っ直ぐに少年は言った。
「意地でもなんとかしてみます」
 老人は、少年を見ようともしなかった
 少年も、黙ってその場を離れていった。
「……勝手にしてくれ」
 小さなつぶやきが、作りかけの人形に落ちていった。


   2

乱雑な音を立てて、飾り棚から何かが蠢いた。暗がりの中、少しずつ、少しずつ、じりじりとそれは動いていく。棚の端まで引きずるように移動して、そのまま何かが床に落ちた。
 落ちたものと床がぶつかり、がたんと大きな音が鳴った。音が部屋に広がって、また無へと戻っていく。そうして音が消えたあとで、その落ちたものはゆったりと立ち上がる。服のしわを伸ばし、少しずれた帽子を直すその姿は、今日老人が作ったばかりの人形に違いなかった。
 帽子をかぶった小洒落た人形は、きょろきょろとあたりを見渡して、誰かが――老人が起きてこないかを確認した。飾り棚の近くからでは、老人の姿は確認できない。しかし、特に気配もないので、人形はほっと胸をなでおろした。
 そろりそろりと、人形は足を進める。誰にも気づかれないように、闇に紛れながらゆっくりと。
「……ちょっと、どこ行くのよ」
「うわあっ」
 突然背後から声が届く。そのことに驚いて、小洒落た人形はその場で派手にすっころんだ。人形は、床で縮こまりおびえたように体を震わせながら、ちらりと、声がしたほうへ振り向いた。自分よりいくらか背の低い人形がどこか不機嫌そうに見下ろしている。
「そんな怖い顔をするもんじゃないよ。彼がかわいそうだ」
「私はもとからこの顔よ」
 背の低い人形の後ろから、のっそりと背の高い人形が顔出した。彼の言葉に、チビの人形が嫌そうに顔を背ける。
 今のうちだと、小洒落た人形はさっと動き出した。今ならまだこっそりと抜け出せる。
 そんな彼のも思いは、あっさりと彼女の行動によって阻まれた。チビの人形がその小さな体で、冗談のような高さを飛び上がり、彼の前へと降り立った。カランカランと持ち手が叩きつけられる。
「だから、どこ行くのよ」
「ひぃっ」
「……さすがに傷つくのだけど」
 いらつくように言うチビの人形へ、ノッポの人形がゆったりとした歩みで近づいた。小さな二人が動いた距離など、足の長い彼からすればほんの数歩もいらない距離だ。
「だから、君が」
「同じこと聞く気はないわよ」
「……その気はなかったんだけどね」
 ノッポは言葉をさえぎられ、やれやれといわんばかりにノッポは首を振る。それをチビの人形が咎めるように、その大きな瞳をぎろりと向けた。
その隙に、素早く小洒落た人形は物陰へと逃げ込んでいく。それから、気になるのかこそりとノッポたちの様子を覗き見た。
「そんなところに引っ込まないでこちらにおいでよ」
 顔だけの彼に、ノッポがそう声をかける。しかし、小洒落た人形はびくりと体を震わせて、さらに奥へと隠れてしまった。
「やれやれだね」
「まったく……」
 ため息をつくようなそぶりを見せて、チビの人形が言う。
「やめたほうがよかったんじゃないの」
「あの子がここに人を招くことがそんなに嫌?」
「何よそれ。そういうような感情ではないわよ」
「ならばそれは、諦めかな?」
「……たまにあなたが何を言っているか、本気で分からなくなることがあるわ」
「僕はただの人形だからね」
「私だって、ただの人形よ」
 チビの言葉に、ノッポは答えるのをやめた。かわりに、物陰に隠れている彼に声をかける。
「さて、君のことだけどね」
「……」
 小洒落た人形は答えない。だがそれを気にせずに、ノッポは彼に語りかけた。
「どうせ朝までそうしてるわけにもいかないだろう?」
 小さく顔を出して、じっと彼はノッポの顔を見つめる。ちらりとだけ、横にいるチビのほうへ視線を動かしたが彼女はふいとそっぽを向いてしまった。
「……」
「大丈夫。彼女は少しいじけてるだけだよ。怒っているわけではない」
「誰がいじけてるのよ!」
 小洒落た人形を無視して、ふたりの人形は言い合いを続ける。その様子がなんだか申し訳なくて、小洒落た人形が仕方なさそうに物陰から出てきた。
「あ、の……」
 おずおずと出てきた彼に、ノッポはすっと言い争いをやめてそちらへと振り向いた。何を考えているか分からない木目の顔が小洒落た人形へと向けられる。
「初めまして新入りさん。少し戸惑っているかもしれないが、受け入れてくれ。これが現実だ」
 鈍い音がした。見れば、チビの足がノッポの足首を強打している。
「なんで蹴ったんだい」
「なんか、腹が立ったのよ」
「あまりそういうことをすると体に悪いよ」
 ノッポの言葉は、聞こえなかったことにした。
「あんたたちは、なに」
 おびえながら、小洒落た人形は言う。完全に萎縮してしまったのが端から見てもよく分かった。
「ただのしがないマリオネットさ。僕も、彼女も、君も、すべてあの子が作った」
「作った……」
「そう」
 諭すように、ノッポは語る。それを彼は呆然と、聞いていた。
「初めまして、君は今日から僕たちの仲間だ。新入りは……たしか三十年ぶりだったかな?」
「二十九年よ」
「それは失礼」
 目の前にいるふたりの言葉は、半分ぐらい聞こえていなかったのかもしれない。ただ、最初に言われた言葉を彼は繰り返した。
「作った、作られた……。ぼくは、人形?」
「そのとおり」
 そう言って、ノッポは小さな彼へと近づこうとするが、また先ほどのように人形は部屋の端へと逃げる。

『近づかないで』

 聞こえた声は、小洒落た人形から聞こえたようで、まったく別の声のようだった。
「それが、今の君の気持ち?」
「……」
 最初と何も変わらない安定した調子で、ノッポは彼に尋ねた。小洒落た人形はただ、目を伏せる。
「わからない。けど、こっちにこないでほしい」
 彼の言葉に、チビの人形はため息をついた。ノッポはただ、それを見つめている。
「私たちがいやならそれでいいけど。勝手にどこかへ行かなければ」
「いいや」
 チビの言葉を、ノッポが遮った。やはり、ずっと変わらないトーンで。だけど、はっきりと彼女の言葉を否定する。
「なにがよ」
不服そうに、チビはノッポを睨み付ける。彼は、それにはまるで動じなかった。淡々と、彼は言う。
「僕たちを拒んだままでは困るんだよ。それはよくない、よくないことだ」
「どうしてよ、いいじゃない」
 彼の言葉を、彼女は強く否定する。
「無理をするのは疲れるのよ。無理をしなくてもきっと時間が解決するわ」
「今でないとだめなんだよ」
「……私たちの時間は無限でしょう」
「あの子の時間は有限だよ」
 ノッポはそう言って、部屋の扉に分かりやすく視線を移す。その扉の向こうでは、ベッドで静かに眠る老人の姿があるのだと、彼らは知っている。
「君は、僕たちが側にいるのは嫌かい?」
 納得していない彼女を放って、ノッポは再び小洒落た彼に言葉を投げる。
「いやでは、ないけど」
「じゃあなぜ、僕たちから逃げる?」
「……わからない」
 小洒落た人形は、ただ力なく首を振る。自分の感情がどこから来ているか、分からない。
「ただ、なんとなく、一緒にいちゃいけないというか、あぁ違うのかな……」
 彼の言葉を、ふたりは静かに聞いた。
「どうしたらいいか分からないの。彼に、なんて言えばいいか……」
 そこまで言って、ふっと小洒落た人形は我に返ったように言葉を止める。何かに気づいたような、そんな動き。
「……彼って誰のことだろう」
 窓から差し込む光はやわらかだ。太陽のように熱は持たず、ただただ「光」として地上を照らす。その光の中でさえ、彼は自分が認識できずにいた。
「……あんたの体に糸があるでしょう?」
 そこに手を差し伸べたのは、彼女のほうだった。
「これ?」
 自分の体から出ている無数の糸。それを見て、彼は尋ねる。
彼女はそれには答えず、そのまま彼の背中のほうへ回りこむ。虚空を掴むようなそぶりで手を出すと、そこには細い糸があった。他の糸とは明らかに違う長く輝く一本の糸。
「これよ」
その糸はそのまま老人の寝室の扉に繋がっている。おそらくは、その扉の向こうから。
「あなたは人形だから、あなたに心はないの」
 彼女は静かに言う。
「もちろん、私にも、彼にも」
「じゃあ、これはだれの?」
「あの子のよ。あの子の心が、あなたの体と繋がっているの」
 糸の繋がるほうを見ながら、彼女は続ける。まるで歌声のように、彼女言葉が彼に届く。染みていく。
「私のも、彼のも、あなたのも、全部。その時々の、あの子の心」
「じゃあ「僕」は」
 この体を作った心は――

『何を悩んでいるんだろう』

「それは……」
「よく、考えてみるといい。君の中に、答えはあるはずだ」
 答えようとしたチビを、先ほどから黙っていたノッポが割り込んだ。淡々とした自身の言葉で、彼女の声を止める。
「ちょっと!」
「おや、怒るとは思わなかった」
「茶化さないでよ。さっきからなんなのあんたは」
「君が答えてしまったら、彼は考える機会をなくすだろう」
「……それでもいいんじゃないの」
 チビの瞳が伏せられる。大きく出張った彼女の目が、何を映そうとしているのか彼らが察することはできなくなった。
「僕はそうは思わないんだ」
 ノッポはそう言うと、小洒落た人形の頭に手を乗せる。彼はびくりと体を震わせたが、もう逃げなかった。
「少しずつ、考えてみるといい」
 ノッポの言葉に、小さく小洒落た彼はうなずいた。
「ではその間、少しこんな話をしようか」
 彼の頭から手をのけて、彼はその長い足で立ちあがる。シルクハットを、気取ったように手にとって、彼は大きくお辞儀をした。まるでマジシャンが手品を見せるように。
物語をつむぐように、話はじめた。
 

 小さな男の子が、人形を使って遊んでいます。布で出来た、とても簡素な人形ですが、男の子はその人形が大好きでした。
 男の子には友達がいません。彼が友達と呼べるのは、その人形だけです。だから、いつも人形と遊んでいました。
 ずっと、一人で。
ある日、男の子がいつものように、家の近くで遊んでいる時でした。一人の女の子が、彼に声をかけました。
「あなた、そんなところで何をしているの?」
 女の子の問いに、少年が答えます。
「遊んでるだけだよ」
「一人で?」
「この子と」
「人形と?」
 女の子は首を傾げました。男の子には、女の子が何を不思議に思っているのかも分かりませんでした。
「ねえ、私も一緒に遊んでいい?」
「君も?」
 今度は男の子が首を傾げる番でした。今まで、彼に「遊ぼう」という子供はいなかったので。
「うん。だめかな?」
「……だめじゃないよ」
 笑顔で差し伸べられたその手を、彼はぎゅっと握り返しました。
 

「……今の、なんの話?」
 小洒落た人形は、朗々と話していたノッポの人形に尋ねた。
「遠い昔の物語だよ」
「男の子はそれからどうなったの」
「どうなっただろうね」
「知らないの?」
「知っているよ」
「じゃあ……」
 謎かけを続けようとして、小さな彼は黙り込んだ。
 この後、男の子と女の子はどうしただろう。どうしたのだっただろうか、あの子は。 
「……」
 ふたりの人形を、彼女は黙って見つめている。彼らの言葉に、入り込もうとはしなかった。

『……話さなかった』
 
 その叫びは、誰の心だろう。
「誰かと、どう過ごしていいかわからない。だから、話さない。彼女にかける言葉が見つからない」
一つ、一つ、思い出すように、理解するように吐き出されている。夏の人形が見つけた、それは一つの心だった。
「嫌な思いをさせている。ぼくは、やっぱり」 

『誰かとかかわるべきじゃない』

 小洒落た人形は、かたんと地面に座り込んだ。力をなくしたように、彼はその場にうなだれた。
 あの子に繋がる糸の光が強く、色濃くなっていく。青に、緑に、赤。すべてが濁って混ざっていく。暗く、強い光が糸に纏わりついた。
『あなた、そんなところで何をしているの?』
 その時、声をかけたのは一体誰だったろうか。
 ただ、その声を小洒落た人形は拒絶しなかった。
「一人でいるんだ」
『何故?』
「きっと……寂しいから」
『寂しいのに、一人でいるの?』
「寂しくなりたくないから、一人でいる」
 誰かも分からない少女の声に、小洒落た人形は言葉を返す。
 けれど、それが誰なのかは、わかっている気がした。
『どうして、寂しい?』
「だって、いつかいなくなる」
『本当に?』
 ふっと、小洒落た人形は顔を上げた。そこには何もいなかったが、何故か誰かがいる気がした。
『その子はそう言った?』
 人形は横に首を振る。
『じゃあ、その子の話を詳しく聞いてあげれたかしら』
 それも、人形は否定した。
『なら、まずは話を聞いてあげてね』
 部屋中に、光が満ちる。暗く濁った糸が塵と消え、その場には人形達だけが残った。


   3

 変わらない朝を迎えて、老人はベッドから身を起こした。そんな毎日のことなのに、どことなくなにかが違う気がすると、老人は思った。
 なにやら夢を見たのだろうか。そういえば、しばらくそんなことはなかった気がする。ずっと一人で同じ日々を繰り返して、特に変わった出来事は何一つなかった。
 変わらない日常を繰り返すように、老人は一つずつ日ごろの生活をこなしていく。
 ふと、何か気になることがあって、朝食の後畑にも行かず老人は作業部屋の扉を開いた。飾り棚には、昨日と同じ人形が並んでいる。前からあったふたりと、少年が作った新しい人形だ。なんとなく、何かが気になったが何が気になったのかは老人には分からない。きっと気のせいだと思いたかったが、老人にはそうは思えなった。
 午前中にやる作業を一通り終えて、老人は昼食を取った。畑で採った野菜を使ってスープを作り、買い置きの硬いパンを浸して食べる。それだけ簡単な食事の最中も、老人は玄関が気になって仕方なかった。
 あの子供は、今日は来るだろうか。彼が押しかけてきて、弟子に出すのを承諾してから毎日のように、老人はそんなことを考える。
本当は、すぐに見限られると思っていた。自分は自分ですら驚くほど、誰かと話すのに向いていない。
弟子にしてもいいと思ったのは本当だが、来ないなら来ないでそれでいいとも思っていた。もともと人とかかわりたくなくて、こんな生活をしているのだから。ただ、今日は一言何か言わなくてはいけない気がした。――聞かなくてはならない気がしていた。
 食器を片付けても少年は来なかった。もう今日は来ないのだろうと、老人は思った。仕方なく、一人作業部屋に向かう。久々だと、感じた。
 それはとても小さかった。
 作業部屋の扉に手をかけたとき、控えめに扉を叩く音が、老人の耳に届く。すぐに老人は玄関へと急いだ。
「えっと……その、おはようございます」
 扉を開けた先には、気まずそうにこちらを見る少年の姿がある。昨日と同じ、だが何故かその手には無数に傷があった。
「……なんて手をしとる」
「え、いやこれは、その……」
 分かりやすく体をはねさせて、少年は明後日の方向を向いた。慌てて両手を背後に回しているが、今更意味はない。
「早く入れ」
家の中に入った少年を、老人はすばやくリビングの椅子に座らせる。あまり使わない救急箱をなんとか見つけだして、机に置いた
「あ、あのおれこれぐらいなら……」
「いいからそのままそうしてろ」
「……はい」
 それきり、少年は何も言わなかった。老人はそのまま手当てを始める。いつもどおりの沈黙。聞こえるのは小さな物音だけだ。春の出会いから、ずっとそうだった
「何をした」
 だからこそ、その沈黙を破ったのが老人の問いであることに、少年は驚いた。目を丸くして、老人を見つめる。彼は少年を見ることなく、集中して手当てをしていた。
「えっと、そのとりあえずもう少し刃物になれたほうがいいんじゃないかって思って……とりあえず野菜の皮むきでもと」
「……思った以上に不器用だな」
「うぅ……」
 はっきりそう言われてしまえば、少年には返す言葉もない。
 手当てを終えて、老人は箱を棚へと仕舞おうとして、ふと思い直したようにそのままそれを手に持ったまま作業部屋のほうを向いた。
「あの、師匠……」
「来い」
「え?」
「……まずは、怪我をしないように教えてやる」
「……っ、はい!」
 老人の言葉に、少年は笑顔で応えた。





Novella

糸繋ぎ、四季踊る
春の章/夏の章/秋の章/冬の章

このブログを検索

QooQ