糸繋ぎ、四季踊る 春の章

2019年4月30日火曜日

糸繋ぎ、四季踊る

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 薄暗い家の中で、わずかな明かりの中を大量の埃と木片が舞う。控えめに開かれた窓から入ってくる風は、それでもこの家の淀みを取り払うには弱すぎた。中央にある小さなランプが、部屋の中をわずかに照らす。その光によって浮かび上がってくるのは無数の人の形だった。その全てに糸、そして棒が繋げられていた。
 その部屋の奥で、一人の男性が真剣に机へと向かっている。歳老いて皮膚のよれた、しかしがっしりとした手の中には、拳大の木材が握られていた。それを刃物で丹念に削り、形を作っていく。しゃりしゃりと、成形の音が規則的に流れ続ける。
 その様子をほかの人形とは離された、背の高い人形と小さくつぶれたような人形がじっと見守っていた。今にも動き出しそうな、暗く深い色を秘めた瞳が老人の姿を映しこんでいる。意思を持たない人形の目は、どこまでも空虚でありのままの彼の姿をその中に落とし込む。
 そうしてしばらくした後、木の削れる音が止みカランと刃物が落ちる音が響いた。机の上には、木製の顔と、腕と、体と、足。それらを一つ一つ確認して、彼は小さく息を吐いた。
 体にゆったりと疲れが巡る。少し根を詰めすぎたのかもしれない。最近は昔のように長時間作業ができなくなってしまった。
 無意識に、老人は先ほどから自分を見つめていた二体の人形に目を向ける。体は皺にまみれ、頭には白髪が混じり、着実に自分の体は老いていくのに、人形たちはいつまでも同じ姿だ。手放す機会を失ってしまったその人形たちは、ずっと老人を見つめている。
 出来てから、ずっと。思い出したくないあの時から、ずっと。
 人形たちの視線から逃れたくなって、老人は作業部屋を後にする。残った行程はそう多くない。これならば、多少の休みを入れても期日までには十分間に合う。
 部屋の扉を開けたまま、キッチンへと向かう。綺麗に整頓されたというよりは、ただ物がないだけの場所だ。最低限一人で暮らしていけるだけの、それだけの道具が並んでいる。老人以外の人の気配は、ない。
 老人が戸棚からティーポットを取り出して、水をくもうとする、その時だった。自分の後ろ、少し遠くの距離から木を叩く音がする。振り返って音がした、玄関のほうを見るともう一度同じ音がして、扉が小さく揺れている。
 訝しげに、老人は玄関へと向かった。人里離れたこの家に来る者は少ない。せいぜい月に二、三度ほど商人が尋ねにくる程度。そして、今日はその日ではないはずだ。
 出来る限りゆっくりと、扉のもとへ近づいていく。
休憩を邪魔された腹いせ、それもある。だが、それ以上に人と会うのは億劫だった。
 ふと、扉の向こうから声が聞こえるのに老人は気がついた。声は二つ。一つはいくばか聞き覚えがある声、もう一つは……全く聞き覚えのない、幼い声だ。
「……誰だ」
「あぁすいませんマゼットさん、私です」
 わずかに開けた扉の向こうから、見知った顔が覗く。普段老人のもとに人形の買い付けにくる、なじみの商人だった。たしか少し前に、すでに今月分の買い付けを行ったはずだ。彼がここに来るのは月に一度だけ。だから、今日ここに来る予定はない。そもそも彼から頼まれた人形だってまだ完成はしていない。
 そのことを老人は、商人に告げた。
「ええ、わかってますよ」
 ならばなぜ来たのか、と責めるような目で老人は商人をにらみつける。特に理由はないが、あまり良い気分にもなれない。
「今日は別件でして……、と、とりあえず出てきてもらえますか?」
 老人の眼光におびえつつ、商人は言った。仕方なく、老人は家の扉を開ける。
 春の暖かな日差しは、それでも風の冷たさにはまだ弱く、老人は肌に寒気を覚える。耐えられないわけではないが、さりとてあまり長時間過ごしたいと思えるような気候ではない。いっそのこと家の中に入れたほうがお互いのためではあるだろうが、老人はそれを良しとしなかった。
 外の気温にようやく体が慣れ、老人は改めて訪問者を見る。
 一つは、先日会ったばかりの商人の顔。
 もう一つは、初めて見る少年の顔。
 年のころはおそらく十の前半。快活そうな男の子で、あまりにも乱雑な茶色の頭が印象に残る、そんな子だ。
「えぇ……わざわざすみませんね、マゼットさん。こっちのは近場の町に住んでいる奴なんですがね」
 商人の言葉に、老人は一掃怪訝な表情で少年を見る。その様子に少年が小さく悲鳴を上げたが、やがて意を決したかのように勢いよく口を開いた。
「おれ、カルロって言います! おれ、どうしても人形が、マリオネットが作りたくて、それで……」
「……」
 威勢のいい、ただそれだけの言葉を少年は一方的にまくしたてる。必死さは伝わるが、老人にとっては煩雑とした騒音でしかない。故に返す言葉もなく、黙ったまま眉間に皺を増やしていた。
「ちょ、落ち着けよ。……すいませんねマゼットさん。その、悪い奴じゃないんですけど。……少し黙ってろよお前」
 老人の様子に、商人があわてて間に入る。謝罪の言葉を述べるよりも、さっさとこの状況をなんとかしてくれないかと老人は思う。慣れない人との関わりは、彼にとって居心地が悪いだけだった。
「用件を言え」
低い声でぼそりと老人が言う。その声に二人は一度ぴたりと動きを止める。
「え、えっとですね……」
 商人の目が泳ぐ。何かを言おうと口を開くがそれはまるで音にならず、ただ唇が触れ合う音が小さく聞こえるだけだ。
 待っているだけ無駄だろうか。老人がそう思い始めた時、先に声を上げたのは少年のほうだった。
「あの! おれを弟子にしてください!」
 翼が音を立てて、木々に止まっていた鳥たちが大空へと飛び立った。静かだった森が騒々しくなり、すぐにまた元の静寂へと戻る。その間の時間、たっぷりと老人は少年の目をまじまじと見つめた。
「おれ、どうしても自分で人形が作りたいんです! だから、あなたの噂を聞いて――お願いです、おれを弟子にしてください!」
 沈黙に耐えかねて、少年はさらに大声で言葉を重ねる。その真剣な瞳を何故か視界に入れたくなくて、老人はその横の商人を睨み付けた。
 自分は関係ないとばかりに首を左右に振る商人に、老人は深くため息をつく。連れてきたわりにまともな説明をしない彼にもひどく苛立った。仕方なく、老人はまた少年に向き直る。子供らしい大きな目に老人の姿がはっきりと映り込んでいた。
「……わしは、弟子は取らん」
 言って、すぐに老人は彼らに背を向ける。これ以上彼と向き合うのは危険だと、頭の片隅で思う。理由はないが、老人はこの子供を苦手だと感じていた。
「あの、……」
 背を向けているので、少年がどんな顔をしているかは分からない。できるだけ視界に入らないように、老人は素早く扉をあけて、家の中へと戻った。
「……帰れ」
「……帰りません」
 小さく呟いた言葉に、少年が意志を返す。
 老人は、あえてそれを聞かなかったように、音を立てて扉を閉めた。
 

   2

「もう、寝たかしら」
「もう、寝たみたいだよ」
 小さな話し声がさっと空気へとけ込んだ。
 工房から灯りが消えて、それでも小さな窓から入る夜空の光がぼんやりと部屋を照らしている。ベッドに入った老人は規則的に胸を上下させ、彼が深い眠りについていることが窺えた。
 人の時間は休息に入る。ここからは、彼らの時間だ。
「最近寝るのがホント早いわ」
「そのかわり、起きるのもずっと早い」
「あぁとっても健康的ね。歳を感じるともいえるけど」
 飾り棚から抜け出して、人形たちは作業机から老人の姿を覗く。ふたりの空虚な瞳が彼を捉えるのはこの何十年かの間にできた夜の決まり事だ。
「今日は珍しい客人が来たから、疲れたのかもしれない」
 ふたりのうちの、ノッポな人形がそう言った。
 彼はシルクハットに黒いスーツを着た紳士風の恰好をしている。手足はすらりと長く、顔や手先には綺麗な木目が月明かりの中でもはっきりと見えた。 
「そう言うと逆になんだか子供みたいだわ」
 隣の人形を見上げて、もうひとりの人形が言う。
ノッポのほうとは対照的に、およそ三頭身ほどしかない小さな人形だ。腰から大きく広がったドレスと、白い石膏の肌。そして薄気味悪い、大きな瞳を持っている。
「今日の子供は、何か事情があるのかな」
 ノッポの人形が窓の方へと顔を向ける。家の前から続く舗装もされていない、ただ踏み固めただけの道が森のほうへと繋がっているのがそこからよく見える。昼間、少年はあの道を商人に引きずられるようにして帰って行った。
「それは……そうでしょうね」
 チビの人形が、彼の言葉に同意する。
「そうでなければあんなところでじっとしてないわ」
「それも、そうだね」
 ふたりはじっと外を見る。
 チビの人形が、家の中へと振り返った。この部屋の奥では、この家の主が静かに寝息を立てている。
「あの子は、どうするのかしらね」
「弟子を取るのか、ということかい?」
「ええ」
 ノッポの言葉に、チビが小さく頷いた。
「商品の売り買い以外で、この家に来た人間はいつ振りかな」
「さあね。少なくとも私がいたときにはもういなかったわよ。それについてはあなたのほうがずっと詳しいでしょ?」
 そう言って隣を見上げるも、ノッポの人形はそれには何も答えなかった。ただ大仰なそぶりで彼は肩をすくめる。仕方ないので、チビの人形はそれ以上何も言わなかった。
「……いい機会かもしれないな」
「何が?」
 二度目の問い。それにも、彼は明確には答えを返さない。
「さあね」
「……それ、私の真似?」
「まさか。たまたまだよ」


   3

 ベッドの近くにある小窓から、ほんのりとだけ光が漏れる。完全に太陽が昇り切っていないその時間に、老人は目を覚ました。体をゆっくりと起こし、ベッドから降りる。老人はそのままの足で寝室を出る。洗面所で顔と歯を洗い、服を着替える。着ていた服は籠に入れておき、ある程度貯まったら洗濯する。朝食は買い置きしてあるものに火を入れて、適当に胃に入れてしまえばそれでしまいだ。
 凝ったことは何一つしない。ただ、必要最低限のことはする。それだけの生活だ。老人の暮らしは、人形作りとそれ以外、その二つだけでできている。
 朝食の片づけを終えて、老人は玄関近くに置いてある如雨露を手に取った。月数回の買い物だけではどうしても生鮮食品が足りなくなる。せめて野菜だけでもと、ある程度は家庭菜園で賄っていた。毎日の水やりは、人形作り前の儀式の一つだ。
 ――本当は、そんなことをせずとも町まで買いに行けばいい。食品の買い出しぐらい大した負担ではない。ただ、あまり自分から人と関わりたいとは思えなかったし、なによりも畑を守ることが自分のすべきことだと老人は思っていた。
 いつも通りに、扉を開ける。外の光が、その隙間を抜けて部屋を照らし――
「うわっ」
 玄関口に立っていた少年の影を床に落とした。
「えっと、おはようございます……」
「……」
 決まりが悪そうな顔で挨拶をする少年を、老人はどこか呆然と見る。言いたいこと、言うべきこと。何も頭に思う浮かぶことはなく、ただ黙って目の前の彼を見下ろしているだけしか老人にはできなかった。
 その様子に何を思ったのかはわからないが、少年はあわてて口を開く。
「すいません、迷惑だとは思ったんですけどもう一度ちゃんと話をしておきたくて」
「……わしは話すことなんぞない」
 ようやく思考が解凍した老人が、それだけ言うとそのまま少年の脇を通りぬける。畑の場所は、家の裏手だ。どうしてこの家には裏口がないのかと、意味もない愚痴が老人の頭をかすめた。
「あ、あの……」
 老人の後ろを、少年の軽い足音が追いかける。そのことには気付いていたが、あえて老人は少年の行動を咎めなかった。
「悪かったと、思ってるんです。勝手におれの都合で押し掛けちゃって」
 少年の言葉に、老人は答えない。そして、少年も答えを待たずに話を続けていく。
「町で、あなたの作った人形を見て、どうしても、直接会って教わりたくて……」
 少年の話を気にせずに、老人は畑へと歩を進める。
 耳が自動的に拾う少年の声が、騒々しいと思った。だが、不思議とそれを止めようとは老人は考えなかった。
「それで……、あっ」
 少年が立ち止まった先には、老人が育てた小さな畑があった。一人暮らしの老人が、いくばかの食材を賄うだけの、小さな小さな畑だ。春らしい青い葉が絨毯のように品良く広がっている。
「すごい」
「大したもんじゃない」
 ぶっきらぼうに言い放つと、老人は如雨露に水を汲み、順に水をやり始めた。手入れというほどの手入れはしない。ただ毎朝、忘れないように空いた時間に水をやるだけの畑だ。
「あ、あのおれ手伝いを」
「しなくていい」
「……はい」
 差し出そうとした手を、少年はおずおずと引っ込める。どうするべきか分からず、とにかく畑を荒らさないように隅の方へと移動した。
 如雨露から落ちる水が、葉を、地面を叩く。土の匂いがふわりと広がっていった。
「わしは」
 ぴんと、少年の背筋が伸びる。
「人は好かん」
 その言葉で、だらりと身体の力が抜けた。
 老人はそのことに気付かず、そのまま言葉を続けていく。
「だから、誰かに教えるなんざまっぴらだ」
 顔を見る事を、しない。少年の反応も、気にしない。それは老人がはっきりと示した、少年への拒絶だった。
 これで諦めてくれればいい。老人はそう思い、絶対に彼の方へ背を向け続ける。それなのに、いくら待っても彼はこの場を立ち去ろうとはしない。
「……本当に、人が嫌いなんですか?」
 実際の時間は分からない。ただ老人と少年にとっての長い沈黙は、少年から破られた。思わず、老人は少年に振り返った。
 意志が強い、琥珀のような大きな瞳が、少年の顔の中で輝いている。
 この子は今、なんと言っただろうか。
 強烈な光の前に、音が意味を持たずに霧散したようだとまで感じた。
「おれ、あなたの人形を見てびっくりしたんです」
 今度は光に負けない、強い音の力が老人に届く。
「今にも動きそうで、語りかけてきそうで……。きっとこれを作った人は、すごく人が好きなんだろうって」
 相変わらずたどたどしい言葉で、少年は語る。
「えっとおれ、幼なじみがいて、その女の子なんですけど。昔から体があまり強くなくて、最近はとくに寝たきりで…何年か前、彼女の調子がいい時に人形劇を見に行ったことがあるんです」
 知ったことかと、遮ってしまえば良かったかもしれない。
 けど老人には何故かそれができなかった。しようと思わなかったというのが正しいかもしれない。少年の叫びは、一直線に老人の元へと届く。
「劇の、お芝居もすごく良かったんですけど……、それ以上に、人形たちがとても素敵で、彼女もそれを気に入って。だからおれ、自分で人形を作って彼女を励ましたいんです」

――ねぇ、お願い。作ってよ。それが一番の励みなの。

ふと思い出すのは、遠い日々のこと。苦い思いが、勢いおく、胸の中であふれ出る。それでも、少年の言葉は続いていた。
「あなたみたいな、優しい人形が作れるような、優しい人から、習いたかったんです」
 老人は、ただ少年を見る。
 少年も、ただ老人を見た。
 ふんわりとしたそよ風に、鳥の声が合わさって、二人の周りを回る。それぐらいのほんのひと時。
「……期待はずれだったというだけだ」
 次に口を開いたのは、老人だった。空になった如雨露を持って、老人はそのまま畑を出る。
 このまま、ここにいてはいけない。
「そんなことないです」
 さっきと同じように、足音が老人の後を追う。
「だって、あなたはおれの話を最後まで聞いてくれましたから」
「……」
 今度は老人は何も答えなかった。
 足早に玄関へとたどり着き、家の中へと入る。少年との距離は考えなかったし、確認もしない。素早く扉を開けて体をさっと滑り込ませた。
「それにおれの直感、あたるんです」
 扉の向こうから少年の声が聞こえる。
「おれ、諦めないですから!」
 その言葉に耳を塞ぎながら、老人はいつもの作業部屋へと入っていった。


   4
 
 夜の冷たい空気も、家の中には入らない。たとえ入ってきたとしても、人形である彼らには関係はなかった。
 チビの人形が、からりからりと音を立てて窓に合わせておかれた棚の上によじ登る。彼女が登りきるのを見届けた後、軽々とノッポの人形が同じ場所に座った。
「なんか、腹が立つわ」
「おや、どうして?」
「言わないとダメかしら」
「いや、別に」
 チビの人形が、その答えに大振りに肩を落とす。やっていられないとばかりに窓の外へと身体を向けた。 
「例の子供、まだいるのね」
「さすがに寝てしまったようだけどね」
 窓の下の壁にもたれかかりながら、少年が寝息を立てる。ただでさえ大きくない体が、さらに小さく見えた。
「……元気な子だ。昔を思い出す」
「……あら、あなたに子供時代でも?」
「もちろんない。昔からこのままだ」
「そうでしょうよ。私もだから」
春とはいえ、夜はまだまだ寒い。時折風に吹かれては、少年は寝づらそうに体を震わせている。小さい体を目一杯に折りたたみ、必死で寒さから体を守っているのだろう。
「使っていない毛布でも持っていきなさいよ。あのままじゃ凍え死んでしまうでしょ」
「一応聞くけど、君が持って行かないのかい?」
「この手足じゃその前に朝がくるわよ」
「……それはそうだ」
 窓からそっと床に降りて、ノッポの人形は寝室の前で山となっている毛布を一枚引っ張った。しっかりと握れる手はないが、なんとかひっかけて引きずるぐらいはできそうだ。
 少し時間はかかったものの、なんとかして毛布を窓の近くまで運びこみ、ふたりで窓から外へと投げ出す。バサリという音と共に毛布が少年の顔を強打したが、彼が起きることはなくそのまま無意識に布で体を包み込んだ。
 あどけない少年の顔を眺めながら、チビの人形は言う。
「彼も、早く帰ればいいのに」
「どうしてそう思う?」
 昨日とは違って、ノッポが彼女に問いを投げる。彼女はそれに対して淡々と答えを返した。
「だってそうでしょう。こんなところに、寒さを堪えながらいる必要なんてないじゃない。彼の親だって、きっと心配しているはずよ」
「あぁ、そうだね。けどそうではなくて」
 ノッポの言葉に、チビは首を傾げる。一体この人形は何を言おうと言うのだろう。
「君は、あの子が弟子を取るのは反対?」
「そっちを気にしていたの」
「僕はあの子の人形だから」
「……そう」
 無関心を装って、彼女の言動はどこか不機嫌そうだ。だが彼女はそれ以上追及しなかったし、ノッポもそれ以上は何も言わなかった。
「反対ではないわよ。ただ、その気がないならひとりでも十分だし、彼が帰ったほうがいいのは事実でしょう」
「僕はそう思わない。ひとりではダンスは踊れないからね」
「……ステップを踏むだけならひとりで出来るわ」
黙って、ノッポの人形は首を横に振る。それを見ないように、チビはじっと窓の外へと顔を向き続ける。
「人とふれあいたいと思うのは、自然なことだよ」
「何十年もこんな生活をしているのに、その理屈が通るの?」
「さあ、どうだろう?」
「あなたの言うことはさっぱりよ」
 人でいうところの、「苛立ち」だろうか。彼女はいっそ乱暴なまでに棚から床へと飛び降りる。からからからからと持ち手がけたたましく音を立てた。
「……あの子に同情しているの?」
 ノッポのほうを一切振り向かず、彼女はそう彼に投げかける。ノッポはそれに対してゆっくりと首を左右に振る。おそらく見てはいない彼女の問いの答えとして。
「いいや。きっと、彼には共感しているんだ」
「ただの操り人形が?」
「そう、ただの操り人形が」
「……好きにしなさいよ。私は知らないわ」
「あぁ。そうしよう」
 

   5
 
 いつものように目が覚めて、老人がベッドから降りる。どこかひやりとした感覚が肌を撫でる。どこからか風が入りこんでいるのか。だがそこまで寒いというほどでもない。
 どことなく感じる違和感に、老人は不気味さを感じなかった。
 日頃の日課は、とりあえず後回しだ。顔も洗わず、歯を磨くこともなく、寝間着のまま、朝食も食べずに老人は一直線へ玄関へと向かう。いつもの場所にある如雨露は、視界に入ることすらなかった。
 蝶番が音を立てるほどの勢いで、老人が一気に扉を開ける。その音と衝撃に呼応するように、玄関脇で布の塊が大きくはねた。
 随分と頭まで毛布を被っていた少年が、きょろきょろと必死に辺りを見回す。混乱しているのか、しばらくの間ずっとそれを繰り返し――
「あ」
 ようやく、自分の横で老人が立っていることに気が付いた。
「え、っと、その、あの……あーお、おはようございます」
 ずっと外にいて、体温も下がっているだろうに、少年は顔を真っ赤にしてなんとかその言葉を口にする。言いようのない恥ずかしさが、少年の身体を駆け巡った。
「何故お前はそんなところにいるんだ」
 溜息混じりの老人の言葉に、少年はまっすぐにその目を見つめる。二日前にも見た、その大きな両目に自分が映りこんでいるのを老人はどこか歯がゆい気持ちで見つめ返す。
「弟子にしてもらうためです」
 真剣で、真っ直ぐな声だ。
 少年らしいと、自然に老人はそう思えた。何度邪見に扱おうと、彼がその視線を歪めることはない。
 自分にとっては迷惑だ。だがその姿は立派だと老人は思う。
 ――未だに立ち上がれず小刻みに震える体さえ、なければ。
「……引っ込みがつかなくなったか」
「……」
 真っ直ぐだった瞳が、少しだけ揺れた。
 老人は目を伏せて、深く溜息をつく。全く、どうしたというのだろうか。今は目の前の無計画な少年を、愚かと思う気も失せている。
「とにかく一度家へ帰れ」
 静かに、老人が彼にそう告げた。
「おれはっ……」
「分かったから、まずは親御さんに事情を話してこい」
 勢いよく立ち上がり、よろめきながら声をあげようとした少年は、老人の言葉によってその動きを再度止める。
 ぽかんと口を開けて、少年は老人の顔を見つめた。
「どうせ昨日は帰っていないんだろう。あまり親に心配をかけさせるな」
 言いつつ、老人は少年に背を向ける。
「今度は来るなら昼からにしろ。そして日が沈む前に帰れ。守れないようなら即たたき出してやる」
「あの、マゼットさんそれって!」
 わずかな距離を、少しよろけながら少年は老人へと駆け寄る。老人はあえてそれでも後ろは向かない。意味はないが、今は顔を見られたいとは思わなかった。別に、不都合はないはずだが、とにかく顔が熱いのだ。
「いつまでもそんなとこで寝られるのも困るからな」
「ありがとうございます!」
「うるさい。……体が動くようになったらすぐに帰れ」
「はい!」
 老人は、少年の声をやかましいとは思いながらも、何故か耳障りとは感じなかった。





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