別れの前に

2018年12月22日土曜日

短編小説

t f B! P L
初出 2012.02.06 大学の課題にて

 人のいない教室にカツカツとチョークが走る音が響く。
 黒板に色とりどりの線が引かれ、交差し、重なり合う。黒板の中央にあるは、「祝卒業」の三文字。そしてそれを囲うように描いた花の絵。少しでも見栄えがよくなればと緑のチョークで葉や蔦なども描いてはみたが、どうも蛇足のようになってしまったのが悔やまれる。僕はそこまでこういったデザインが得意ではないし、気の利いた性格でもないからどうしても無難以上のものはできあがらない。
 チョークを一度置き、ふうと息を吐く。誰もいない教室に僕の溜息が響いた。
 校内共通の壁掛け時計を見ると、時刻は四時。いつもなら放課後おしゃべりをする生徒や、部活動にいそしむ人々の姿が見えるのだけど、今日は誰もいない。明日の卒業式を控え、三年生たちは午前中には帰宅した。準備を任された一、二年生も多くは作業を終え帰路についているだろう。
 では何故僕がこの教室にいるのか。答えは簡単だ。僕が卒業を控えていない二年生で、この学校の美術部員だから。
 僕が所属する美術の恒例行事の中に、卒業式に三年生の教室の黒板に絵を描く、というものがある。いつから始めたのか、また誰から始めたのかは知らないが、少なくとも僕が入部した時からはすでにあった。去年は計五人ぐらいで三クラスある三年生たちの教室を飾ったものだ。
 その時は五人での分担作業だったので早い時間に終わらせ、部員みんなと安いファーストフード店に行ったりしていた。とはいえ今は僕一人。年々数を減らしていたこの美術部は僕の代で新入部員一人を記録し、その翌年は入部者ゼロ。そして、明日卒業する先輩たちは四人。これで、この美術部の部員は僕一人になる。
 一人で描いた黒板を見る。基礎の部分はほとんど完成し、あとは細部を仕上げていくだけ。休みなく作業を続けていた甲斐あってか、ここの黒板を仕上げれば最後だ。しかし、すでに外には夕暮れが見え始め、腕も疲れを訴え始めている。
「こんなことなら先輩の申し出受けるべきだったかなあ」
 思わず声が出る。僕が一人で作業をすることを知った先輩たちは、手伝おうかと声をかけてくれた。けど、僕はそれを断った。先輩たちの卒業を祝うための作業を、卒業する本人たちにさせるわけにはいかない。
 ただ、……本音を言うなら、今は先輩と同じ空間に居たくなかった。
 ちらりと黒板の横にある名簿を見る。そこに書かれたとある人の名前。
 僕が、女性として憧れていた先輩の名前だ。
 笑顔が素敵な人だった。少し引いたところのある、おしとやかな女性で、物静かに笑うその仕草が美しかった。思慮深く、聡明で、だけどどこか抜けたことのある人だった。
 その名の羅列を見るだけで、彼女の姿が僕の脳内に広がる。綺麗に微笑む彼女を囲むように、黄色い花が咲き乱れる。その黄色い花を殺さないように、いや、より際立たせるようにひっそりと桃色の花が混ざる。その奥ゆかしさが彼女と重なり、さらに引き立てているようだった。
 そこまで考えて、むなしくなり思考を止める。僕がいくら先輩に恋い焦がれようと、彼女にとって僕はあくまでも後輩でしかないのだから。
 教室の引き戸が動く音が聞こえる。
 突然のことに驚いた僕は、勢いよくその音が聞いたほうを見た。
「お疲れーまだ残ってたの?」
「斉藤さん?」
 訪問者は同じクラスの子だった。今時珍しい黒縁の眼鏡をかけた長髪の女の子で、生徒会役員。所謂、優等生という存在だ。同じクラスなので少しぐらいは話をしたこともあるが、僕とは特別大きな関わりのある子ではない。
「どうしてここに?」
 僕がそう言うと、彼女は後ろに隠し持っていたものをそっとだした。自販機で売られている紅茶のペットボトルだ。
「ちょっと差し入れだよ。遅くまで頑張っている美術部員さんに、生徒会から」
 そういって彼女は僕の方にペットボトルを投げた。近い距離とはいえ、乱雑に渡されたペットボトルは、僕の手をすり抜ける。重力によって落ちたそれは床を踊るようにはねた。そのままころころと転がり彼女の元へと戻る。ペットボトルの飲み物にまで拒絶されたような気がして、なんだかむなしくなった。 
「ご、ごめん」
「あぁ、いや、いいよ」
 あわてて拾おうとする彼女をその場に留め、僕は落ちたペットボトルに手を取った。
「わざわざありがとう」
「あ、うん、どういたしまして」
 僕が礼を言うと、彼女はにっこりと微笑む。普段あまり表情を変えない子だったから、少し新鮮だった。
「えっと、もう終わりそうなの?」
「うん、あと仕上げだけ。斉藤さんは生徒会の仕事終わったの?」
「あ、うん。だから差し入れついでに手伝えないかと思ったけど……。私には無理そう」
 そういって彼女はがっくりと肩を落とす。たしかに成績優秀、との噂はよく聞くが、美術系実技が得意という話をあまり聞いたことがなかったことを思い出した。
「なら、ちょっと話し相手になってくれる? 一人で黙々と作業するのにも飽きてきたところだから」
 あまりにも気落ちする彼女を見て、思わずそんなことを口にする。その言葉に彼女は驚いたようにあこちらを見た。普段からまともに話をしたこともないし、変に思われただろうか。
「あぁ、その、嫌なら別に……」
「へ、あ、いや、別に嫌なわけじゃないから! え、えっと私でよければいくらでも!」
 あわてたように彼女は一気に捲し立てる。その様子がいつもの彼女とは違って見えて、なんだかおかしかった。
 僕は手にチョークを取り、作業を再開する。飾り付けられた花の一枚一枚に手を加えていく。細かいとこまで丁寧ね、と昔先輩に褒めてもらえたのが嬉しくて、それから細部にこだわる描き方をするようになった。
「やっぱり絵上手いね」
 背後から聞こえる斉藤さんの声に、はっとする。思い出に浸かっている場合じゃなかった。
「そうでもないよ」
「ううん、すごい。私は全然だし……」
「まあ、好きなことだしね」
「あ、そっか……」
 背中で彼女が言いよどむ気配を感じる。失敗したかな、と思いつつどうすればいいのかわからないので、ただ腕を動かし続ける。
「あ、えっと、美術部の、部長さんだったっけ。かっこいい男の先輩いるよね」
 ぴくりと、小さく肩が震えた。会話が途切れたことで、話を切り替えようとした斉藤さんが次に話題にしたのは、今僕が一番聞きたくない人の話題だった。
「友達が憧れてたんだけど、彼女とかいるのかな、あの人」
 震えそうになる手を必死で止める。気づかれてはいけない。
「いるよ、彼女」
「え、ホント? まぁかっこいいもんねぇ」
 あの子には言わない方がいいかなあと、彼女はそっと呟く。僕はというと、心の動揺を押し殺すことで精一杯だった。
『私たち付き合うことになったのよ』
 先輩たちの引退間近、いつもと同じ素敵な笑顔で、彼女は僕にそう告げた。相手はもちろん部長で、僕自身もお世話になった先輩だった。笑顔が素敵なあの人は、僕が知らないところで、別の人の隣を定位置として選んでいた。僕が先輩たちの手助けを断ったのはまぁ要するに、そういうことだ。彼ら二人と同じ場所にいて、正気でいられる自信がなかった。
 別に先輩を妬むつもりなんてこれっぽっちもない。僕にあったのは、この人なら仕方ないという諦めと、尊敬する先輩を祝福する気持ちだ。だけど、それでも彼女の隣にいるべき人が自分でないということを突きつけられる気がして、怖かった。
「えっと……どうかした?」
「あ、ごめん、なんでもないよ」
 急いで取り繕う自分のなんと滑稽なことだろう。未練だらけではないか。そんな自分に反吐が出そうになる。
「ねぇ、斉藤さん……」
「え、なに?」
「もし、斉藤さんの好きな人に恋人ができたらどうする?」
「え、えっ……」
 声に出してからしまったと思った。いくら失恋で傷心しているとはいえ、親しくもないクラスメイトにする話題ではない。そんな簡単なことを失念するような状態になのかと思うとさらに情けなくなる。
「ご、めん、今の忘れて……」
「わ、私なら、」
 僕が止めようとする前に、彼女声がそれを遮る。
「私なら、その、多分ショックは受けるだろうけど、その、諦めたくないかな……」
 続く彼女の言葉に驚いて、僕は思わず後ろを見る。
 そこには顔を真っ赤に染める斉藤さんの姿があった。
「あ、え、えっと、別にその人の恋人になることを、じゃなくてね、お、想いを伝えることを、諦めたくないかなって……」
 しどろもどろになりながらも必死に話そうとする彼女を僕は呆然と見つめる。いつもは彼女の知的さを出すのに一役買う眼鏡も、今は恥ずかしがる彼女を隠すための蓑になってしまっている。その眼鏡のレンズに、僕の姿が映り込んだ。精一杯に言葉を探す彼女と、自分自身の差がそこにはありありと映っている。
「だから、その、恋人ができても、好きだったことだけは伝える、かな。それから祝福すると……思う」
 そこまで言い切ると、途端に彼女はしゅんと萎れてしまった。少し間をあけて、そろりと顔を上げる。
「ご、ごめんね、なんか、その……」
「いや、僕の方こそごめん。なんか混乱させてしまったみたいで……」
 僕がそこで言いよどむと、その場に沈黙が横たわった。
 あまりにも気まずかったので、僕はまた黒板のほうを向いて作業を再開する。また静かな教室にカツカツとチョークの音が響きだした。
 長く、短く、低く、高く。様々な音の螺旋になって、その動きは僕たちの耳へと飛び込んでくる。何も話せずにいる僕らと違って、チョークと黒板はとても仲が良さそうに会話を続けていく。
 それからどれくらい時間が経ったのか。その間、僕たちに言葉はなかった。作業はほとんど完了し、チョークと黒板の音もやがて止まる。
「……そろそろ帰ろうか、斉藤さん。もう作業も終わったし」
「あ、う、うん」
 荷物をさっと片づけ、チョークを入れ物に直す。預かってる鍵を手に取って、僕たちは教室を出た。
 廊下を歩いてる間も、僕たちはずっと何もしゃべれずにいた。
 職員室に鍵を返し、昇降口で靴に履きかえた僕たちは、校門を潜り学校の外に出る。明日、ここを通ってしまえば、先輩とはお別れだ。
「家まで送ってくよ。僕のせいで遅くなったからね」
「あ、ありがとう」
 ゆっくりと通学路を家に向かって歩いていく。空は夕焼けで赤く染まっていた。
「ねぇ、さっきの話だけど……」
「え?」
 そのまま何もなく帰るのだろうと思った矢先、斉藤さんが口を開いた。
「えっと、君はどうしたのかな、って……」
 僕は、どうしたのか? ……先輩に恋人ができたことを知って、叶わない相手と知って。
「僕は……諦めたよ。伝えることも」
 この震える喉は、ちゃんと聞き取れる言葉を発してくれただろうか。この震える足は、最後まで歩みを止めずにいてくれるだろうか。
「……そっか」
 彼女はそう言って頷いた。
 僕はそれから何も言わなかった。彼女ももう、何も言いだそうとはしなかった。
 静かな、別れの前の午後だった。


                                         end

Novella

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